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「自分への興味」に苦悩する


大学を卒業して早5年が経ち、年度で数えれば社会人の6年目が始まった。そろそろ新卒が何年が経ったのか、最近はパッと思い出せなくなりつつある。

振り返ると2022年は比較的と生活と社会のバランスが取れ始めた一年で、一定ユトリがあった故に、自分自身への関心を認知し苦悩していた1年だった気がする。
無意識に「常に誰かと繋がっている」ような心理があって、自分を見ている自分に犯されているような気がしている。常に。自分を生きることは簡単ではない。過剰になりすぎた自分への関心は、状態としてはあまり良くないように思う。

自分の思考・意識の向き方の例で、
・営業は商談中に利害関係や金銭的な展望を常に意識する。
・人事・広報的な人達はメディアやユーザーを想像する。
・タレントは目の前に起こる出来事の企画性や面白さの成立を考えている。

人々は自分の立場から、様々な観点で現実に対して、第三者視点を持ち合わせている。

僕たちは、SNSやインターネットを通して見えない第三者の存在を意識しているが、立場やステートメントが明らかでないまま、自己表現や承認を源泉に動き続けている。
常に何かに繋がっていて、目の前の現実への比重が薄れているという問題を認識して、僕は目の前の光景を消化することすらままなっていない。
すぐ解決するような問題ではないと認識してて、人によって強弱やグラデーションはあるだろうけど、なかなかシビアな問題だと思う。
インターネットで仕事をしていているはずなのに、全然使いこなせない。インターネットもっと道具的に捉えて、付き合う方を考える必要がありそう。

似たような見ているようで見ていない、注意が散漫になっている、みたいな文脈の話で、
Netflix , Sporify, Instagram などのオンデマンドサービスで “興味がありそう”だとオススメされる娯楽を受け入れ続けている。実際には受け身である以上は、本来的には興味もないのかもしれない。
そんなコンテンツに溢れる社会環境、常時アップデートされるコンテンツをフロー的に摂取している状況は、一種抑鬱的な行為なのでは?
社会や生きることに向き合うことの辛さやしんどさを、誤魔化しているような気がする。
5分で読める文章すら読めない、一日15分の筋トレや勉強ですらままならない。悩みや問題を誤魔化したまま生活を送ってしまっている、みたいなことってない?
悩む ≠ 考える ことではないが、悩む時間が削減されることで、さらに考えるチャンスを失っている感覚。考えるための道具(本・友達)などに頼って、他人の頭を借りて考えさせてもらうことから始めるのが良さそう。と思っている。

そういった悩みを抱えた2022年だったが、問題を言葉にできていることはポジティブに考えて良いね。
方向性を規定しようとしたり、コンパスを考え続ける営みを続けてきた。
考える時間よりも、迷っていたり悩む時間の方が長かったのかも知れないが…まあ人間だもの



未熟

なんでこんなに環境に対して憂いているのか?まだまだ自分は承認を求めていて、自分に納得できていなくて、社会との接続が未熟だから。
自己評価は自分を規定する側面があるので、あまりネガティブな自己評価は良くないけど、器用貧乏で、本当にできることしかできない。何より注意が散漫に感じる。集中力がない。

だができることしかできない。でもできることはやるという意味で、成果や軌跡を残したいし、社会と学びをグラデーションしたい。
“人生”というと大袈裟だけど、自分の教養・専門性を深めるために生きたいし、それが叶わなくても、自分の資質をできる限り尊重できるような人生を送りたいと思っている。その足がかりになるような2023年にできれば最高。

より直接的な生産や、目の前の光景から得られたインスピレーションに集中する一年にしたい。
そのために武蔵野美術大学の通信 デザイン総合に入学した。

内実的な動機に基づいて生きるための挑戦で、将来像やこれから想像アウトプットとの関係は解像度が低い状態。
でも内実的な動機を大切にして、継続的にできることをやる。人生は辛い。